第68話 『旅立ち』
道元は、初めてこの地に降り立ったバス停にいた。バス停からつづくゆるりとし
た道の向こうにそびえ立つ花やしきをぼんやりと見ていた。高層階の壁にほのか
に光るバックライトに照らされた会津の宿花やしきの文字が夕暮れに浮き上がっ
ていた。もうすでに12月に入り、雪はまだ降っていないものの会津の冬は厳しい。
体の芯にまで寒気が入り込んでいるようであった。
紅葉の季節に起こった経営者の総退陣という大事件からわずか1ヶ月ほどしか経
っていなかったが、道元にとってはもう半年以上経ったような気持ちになり、ひ
どく心労を感じていた。
メインのもも銀行から見捨てられた朝倉家の当主朝倉英二は、大銀杏とともに散
った。綾子女将、月野常務、上田常務総支配人、森重営業部長も全員解雇された。
もも銀行はあるファンド会社に債権を全て譲渡し、第二会社で設立された承継会
社にファンドが全額出資を行った。そうして、ファンドから新たな経営陣が派遣
された。その間にも、朝倉家はあらゆる手を使ってファンド会社が入り込んでく
るのを邪魔しようと、政治家を使い、次から次へともも銀行の頭取やファンド会
社経営者に圧力をかけた。月野常務は花やしきが持っていた顧客データを全て消
去し、森重営業部長は社内にある全ての営業資料を焼き捨て、つきあいの深い顧
客全てに挨拶回りを行い、花やしきがハゲタカファンドに乗っ取られたと吹聴し
て回った。しかし、その数日後には会社分割が実行され、旧会社に取り残された
役員は全て清算されてしまったのだった。
すべて半年以上前からもも銀行によって用意周到に描かれたストーリーに従って
淡々と物事は進んでいったのだった。あらかじめ現経営陣が知らない間に、もも
銀行の主導で私的整理が進められていたのだった。
ファンド会社からは、道元に社長として残留してほしい強い要請があった。しか
し、ファンドから派遣される経営者は、道元の知り合いでもあり、経験も知識も
十分な方であった。また、解雇された切通支配人が総支配人として再雇用される
ことも決まった。あらゆる場面で朝倉家と対峙し疎まれていた切通であったが、
道元の信頼は一番厚かった人間であった。このように新たな船出をするには十分
な人材がそろっていると判断したためであった。
ようやくバスが来たようだった。でも、と道元は考えた。今回の再建はわずか半
年あまりであった。この期間に一番成果を得たのは、もも銀行かもしれないな。
岡島部長の笑顔がふっと目に浮かんだ。まあ、いいだろう。バスのステップに足
をかけてふっと後ろを振り返った。夕暮れもとっぷり暮れて会津の宿花やしきの
文字がより輝いて見えた。